ご冥福をお祈りします・竹脇無我様の不器用な晩年
2011年08月23日
まったく面影がなくて申し訳ございません。

間違いなく社会人1年生の頃はこんな風に痩せていました。
まったく面影がなくて本当に申し訳ございません。

8月21日午後2時5分、小脳出血のため他界されました
竹脇無我様、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
故人には大変申し訳ないことではありますが、
大学を卒業して、今はなき西武百貨店 豊橋店に入社した頃、
「5階に竹脇無我さんにそっくりな新人が入社した。」と噂になり、
いろんな売り場から沢山の女性社員が見に来ました。
まさに過去の栄光でした。
こんな記事は最初で最後ですので嫌がらせのコメントはご勘弁下さい!
残念ながら、西武百貨店もなくなり、これを証明して下さる方はお見えでなく
今では、単なる自惚れ!ホラ!嘘!になってしまいますが、
唯一、中学の同級生の現在豊川市内の電気屋さんの奥様だけが、
当時の同窓会のことを覚えていて下さり、今でも初めてお会いする人を紹介して
下さる時に必ず、
「この子、こんな肥った身体と醜い顔してるけど、昔は竹脇無我にそっくりで
竹脇無我に対抗して、無我夢中って呼ばれていたんだよ!」と、
ちなみにその電気屋さんの奥様、私以上に肥った身体と醜い顔されていますが、
唯一の生き証人です。
今では竹脇無我さんを知っている方少ないと思いますが、
ずっと気になっていましたが、
まさか、67歳だったとか、鬱病とか初めて知って驚きでした。
竹脇無我 「二人の世界」あおい輝彦?
クールな二枚目俳優として活躍した竹脇無我(たけわき・むが)さんが21日午後2時5分、小脳出血のため死去した。67歳だった。“森繁ファミリー”の秘蔵っ子として愛されながら、森繁久彌さん亡きあとは、生真面目すぎる性格から、不器用な晩年をおくっていた。
1944年、千葉県生まれ。名アナウンサーとして知られた故竹脇昌作さんの3男で、青山学院高等部に在学中の60年に映画デビュー。渋い二枚目役として、映画「人生劇場」などで一躍スターになった。父譲りの美声で女性ファンの支持を集めた。
テレビドラマでは、とくに森繁さんにかわいがられた。「だいこんの花」「おやじのヒゲ」シリーズなどでは森繁さんと親子役を演じた。
「松山英太郎さんが“長男”なら、無我さんは“次男坊”。『オヤジ、オヤジ』と慕っていました」(プロダクション関係者)
ところが、91年に松山さんが食道がんで他界。加えて、ドラマの演技が一部から「ワンパターン」と揶揄され、49歳で自殺した父親の年齢に近づくと、プレッシャーから鬱病を患った。97年には2人の娘をもうけた妻と離婚。2000年に糖尿病と鬱病治療のため入院し、退院後も仕事を1年休養した。
03年に鬱病との闘いをつづった初著書『凄絶な生還 うつ病になってよかった』を出版したのを機にカムバック。このとき単独取材したリポーターの武藤まき子さんが振り返る。
「まだ滑舌がおぼつかなかったですが、ゆっくりと、大丈夫ですからとお話しいただいた。それまでプライベートを語る方ではなかったのが、離婚には直接触れなかったものの『娘たちがよくしてくれている』と絆を明かし、『映画もドラマもやりたい』と話していました」
しかし、09年11月に“父”森繁さんが96歳で亡くなったことで、再び落ち込みが激しくなった。武藤さんが続ける。
「斎場で声をかけると、『う~ん』と下を向いたまま。コメントを求めると、『うん、分かった』と言ったあと、人目をはばからず泣きながら、『もう一度、会いてえ』と振り絞るように。役者さんには珍しくカメラの正面を見ず、横向きのままで、痩せていました」
晩年は必ずしも俳優としては恵まれなかった。関係者が明かす。
「鬱病から復帰したときに、やめたはずの酒を最近、口にするようになっていました。皆、心配していたが、親しい人を遠ざける素振りもあった。芯はナイーブな人。信念のためには“我”を通すこともあった。生き抜くために役柄を“いい加減”に妥協することができない生真面目な人だったんです」
“無我”という名前に縛られていたのかもしれない。
竹脇無我 CM集
「二人の世界」
「姿三四郎」
「大岡越前 」
残念ながら「岸辺のアルバム」の画像はありませんので歌のみで
Posted by 「TMネットワーク☆STAFFブログ」 at 22:00